ボイストレーナー小谷です。今回は第10章「声楽演奏のための種々な要素」を解説します。
前回解説「フースラーメソード徹底解説10:声の出し始めについて」を未読の方は下記をご確認ください。
https://voitoreyktn.com/voice-production-theory/post-18473/
この章でフースラーはフレージング、フォルテ、ピアノ、マルテラート、コロラチュラ、トリル、メッサ・ディ・ヴォーチェ、ベル・カントという八つの技術項目が、順番に取り上げられていきます。
はじめに、フースラーがこの章で言いたかったことを、ひとことで示しておきます。
声楽の技術は、意志や努力で「作り出す」ものではない。発声器官が正しく働いたときに、結果として「現れる」ものである。
これがこの章を貫く結論です。フォルテもピアノも、コロラチュラもトリルも、フレージングも――すべては「がんばって作る」のではなく、発声器官の各部分が協力し合った結果として「自然に出てくる」ものだ、というのがフースラーの立場です。
では、なぜそう言えるのか。
フースラーはこの結論を、八つの技術項目を順に取り上げながら、ひとつずつ理由を積み上げていく形で証明していきます。フォルテの章では「強い声がふくらむ仕組み」から、ピアノの章では「弱い声が透る条件」から、誤った強声の章では「失敗例の解剖」から、コロラチュラの章では「未熟な声でも流麗に歌える事実」から――それぞれ別の角度で、同じ結論を裏づけていくのです。
つまりこの章は、八つの独立した技術解説に見えて、じつはひとつの結論を八つの論拠で支えている構造になっています。
本記事では、この章の順序に沿って、フースラーがそれぞれの項目で何を主張し、その主張がどのように「結論」を支える証拠になっているのかを、誤解されやすい点を整理しながら見ていきます。
目次
1. フレージング――「声の流れ」とは何か
1-1. 「声の流れ」は本当に存在するのか
声楽で言う「フレージング」の最もシンプルな定義は、いくつかの音をひとつの旋律的なまとまりに結びつけることです。音楽理論家はこれを「旋律の呼吸」と呼びます。歌い手はもっと感覚的に、「声の流れにのせて歌う」と言います。
ところが、物理学者からはこんな反論が返ってきます。
「喉から出る”音波”と、肺から出る”気流”は別物だ。音波は全方向に広がるが、気流は一定方向に流れる。だから物理的に”声の流れ”などというものは存在しない」
もっともな指摘に聞こえます。しかし、ここには注意が必要です。物理学者が否定しているのは「音波=気流」という等号であって、歌い手が感じている現象そのものではありません。
1-2. 物理的にはなくても、美的にはたしかに存在する
フースラーの答えは明快です。
物理学的には”声の流れ”はなくても、美的感覚としての”声の流れ”はたしかに存在する。
もし「声の流れ」が完全に存在しないなら、旋律を一本の線として描くこと自体が不可能になってしまいます。しかし現実に、旋律は線として描かれている。だから「声の流れ」は、美的・音響的な現象として実在するのです。
そしてフースラーはこう付け加えます。この現象は、発声器官で「ある決まったやり方」が行われたときに、その結果として生まれるものだと。
1-3. 「声の流れ」は意志ではなく、協調の結果として生まれる
ここが、この章の最も大事なポイントです。
フースラーによれば、「声の流れ」は発声器官の各部分がよく協調し合ったときに、まったく自動的に生まれるものです。意志や技巧で作り出すのではありません。協調が整えば、勝手に生じるのです。
とくに鍵を握るのが、声帯を伸展させる(ぴんと張る)働きです。これが整えば、生理的・物理的な現象として、発声器官そのものがフレージングを行ってくれます。
1-4. 音楽性が高いのに、フレージングできない歌い手がいる理由
ここで重要な対比が出てきます。
音楽性(感性・理解)と、発声器官の協調(生理的条件)は、別物です。
ですから、高度な音楽性を持っていても、流れるようなフレーズがまったく作れない歌い手というのが、実際に存在します。理由は二つあります。
ひとつは、音から音、小節から小節へ進むたびに、発声器官が内部崩壊して、そのつど立て直されている状態。もうひとつは、押し出すような呼気と喉頭の抵抗が忍び込んで、発声器官全体の合奏を妨げている状態です。
フースラーは診断的なテストも示しています。「ふたつの音にかけられたスラーを歌わせるだけで、その人の発声器官の健全性がわかる」というのです。たった2音のスラーが、診断ツールになります。
注意したいのは、「流れるように歌えない=音楽性がない」と短絡してはいけないことです。むしろ逆で、流れないのは発声器官の協調障害のサインなのです。
1-5. 自然に任せるだけでは、芸術にはならない
ただし、フースラーは「自動的に生まれる」という話を一方的に押し通したりはしません。
単純な旋律のフレージングなら、発声器官の天性で行われます。しかし、芸術的に高度なフレージング、知性的な含蓄を持ったフレージングを構成するには、その天性も統制のもとに置かれていなければなりません。
自動性が土台、その上に統制が乗る。 この二段構えです。
そしてフースラーは警告も置いています。発声器官がまだ正しく調整されていない歌い手に、いきなり芸術的なフレージングを要求しても、出てくるのは「非音楽的なつぎはぎ細工」にすぎないと。とくにオペラの下稽古でよくある要求だ、と辛口に指摘しています。
土台が整わないうちに、表現を乗せるな――順序の問題です。
2. フォルテ
2-1. フォルテの正体は”合わせ技”です
フォルテ(強声)は、ひとつの動きで作られるものではありません。二つの仕事が同時に成立して、はじめて本物になります。
ひとつめは、声帯そのものの仕事です。内側の筋肉(声帯筋)が強く収縮すると、声帯はその全幅で振動します。これが強声の”本体”を生みます。
しかし、これだけでは足りません。喉頭を支える筋群(喉頭懸筋群)が働いて共鳴腔を広げ、長くします。ここではじめて声に”ふくらみ”が加わります。
本体だけのフォルテは、痩せて硬い。ふくらみだけでは、芯がない。両方そろって、はじめて気持ちよく響くフォルテになります。
2-2. 本物のフォルテと、力ずくのフォルテ
両者を見分ける基準は、ひとつだけです。
「強くした声を、さらにふくらませる余地が残っているか」
残っていれば本物。残っていなければ、それはもう”力ずくで押し通したフォルテ”に変質しています。
では、その余地は何によって保たれるのでしょうか。答えは、声帯が全力で働いているあいだも、喉頭が良い位置につなぎ留められていることです。役割を担うのは、喉頭懸垂機構(喉頭を支える仕組み)です。
ここに、見落とされがちな構造があります。
フースラーは以前、「使えるファルセットや頭声を作るには、喉頭を良い位置に置くことが決定的だ」と述べていました。つまり、ファルセットを支える条件と、フォルテをふくらませる条件は、同じ土台の上にあるのです。
繊細なファルセットと、力強いフォルテ。一見、対極に見えるこの二つが、じつは同じ仕組みに支えられている――この事実こそ、この章の核心です。
3. 誤った強声の出し方、あるいは疑問の残るやり方
3-1. この節の位置づけ
強声の出し方は、実際にはいくつも存在します。そのうちのいくつかは、比較的すぐれた歌い手によって、ドラマティックな効果のために用いられてもいます。
しかしフースラーは釘を刺します。それらの方法は、「声帯を自由に楽々と振動させる」という真の声楽的原則を否定するものだ、と。効果があるからといって、正当化されるわけではないのです。
ここでは、二つの典型的な”誤ったフォルテ”が紹介されます。
3-2. 第1のやり方――呼気で押し下げる
肺いっぱいに吸い込んだ息を、そこで強く圧迫します。すると横隔膜のドーム状のふくらみは平らに押しつぶされ、自由な運動性を失ってしまいます。弾力性も低下します。
フースラーの表現は厳しいものです。「残酷に無理強いする意志のなすままになるほかない」。
この圧力は上方に向かって、おそらく仮声帯によって受け止められます。仮声帯というのは、声帯の上を覆って保護するためにふくらみ出るもので、咳をするときや排便のときと同じ働きです。
3-3. 第1のやり方で起きていること
横隔膜を強引に下げると、喉頭を支える筋群が(甲状-舌骨筋を除いて)働かされます。声門にはわずかなすき間ができ、声帯はよく伸展されるので、出てくる声は「頭声的」に響きます。
ここで誤解しないでほしいのですが、「頭声的に聞こえる=正しい」ではありません。
このとき発声器官は、横隔膜から軟口蓋まで、ある特殊なやり方で固定されています。出てくる声はその堅固な固定にふさわしいもので、「間投詞的な表現以上の何物でもない」ことが多いのです。劇的に聞こえても、旋律線の中に溶け込まない、孤立した叫びにすぎません。
3-4. なぜこのやり方が有害なのか
このやり方は、発声器官の本来の機能性に背き、偉大なイタリア流派の伝統にも反します。
長く、しつこく続けると、「喉頭筋群と呼吸器官の協力の均衡が、永久に破壊されることがあり得る」とフースラーは警告します。
さらに危険を増やす”上乗せ”もあります。声門にできるすき間を矯正しようと、舌の筋肉や舌骨筋で喉頭を固定するやり方を併用するケースです。フースラーの診断は容赦ありません。「すみやかな声の死で終るのが常である」。
フースラーは健康面にも言及しています。このような歌い方をしている人の頭部には、変則的な血液循環による鬱血が一目で見て取れる、と。年老いた歌い手の身体には、ふくらみっぱなしで麻痺したような胸部、慢性的に押し下げられた腹壁、非弾力的な体幹、下肢にまで及ぶ硬直が現れます。
声の問題は、全身の姿勢と連動しているのです。
3-5. 第2のやり方――声門を暴力的に締める
もうひとつの誤ったフォルテは、まったく性質の異なるものです。「活力はあるが、未訓練の発声器官」によく見られます。
仕組みはこうです。喉頭を支える力が弱いところに、声門を閉じる筋肉を暴力的に使います。声帯を伸展させる筋群は働かないまま、声帯をむやみに強く締めて出す強声です。たいていは、強い呼気の圧迫もそこに加わります。
このとき、喉頭蓋は典型的に後ろへ傾き(本来は直立すべきです)、披裂軟骨は前に傾き、喉頭は上方に固定されます。叫び声に特有の形です。
結果として出てくる声は、硬く、耳に突き刺さるようで、狭く、声帯の幅広い振動を欠いたものになります。
3-6. 二つの誤りを区別する
ここは読み流さないでください。第1と第2のやり方は、外見上はどちらも「強く出る」声ですが、内部で起きていることは対照的です。
| 呼気 | 声帯の伸展 | 喉頭の状態 | |
|---|---|---|---|
| 第1のやり方 | 過剰な圧 | よく伸展される | 全体が固定される |
| 第2のやり方 | 強い圧 | 伸展が弱い | 上方に固定される |
ひとくくりに「フォルテの失敗」と読み流さず、二種類の失敗形として読み分けることが大切です。処方も当然、変わってきます。
4. ピアノ
4-1. 弱く歌うだけでは、よいピアノにはなりません
フースラーはまず、否定から入ります。
「ただ単に弱く歌っただけでは、まだ決して音楽的な弱声ではない」
よいピアノは、よいフォルテと同じくらいによく透らなければなりません。同じくらいに、ふくらませ得るものでなければなりません。
ここでフォルテのときと同じ論理が繰り返されます。フォルテで「ふくらませ得るかどうかが、喉頭が良い位置につなぎ留められているかどうかにかかっていた」のと同様、ピアノでもまったく同じ条件が必要です。
フォルテとピアノは、強弱が逆でも、支える土台は同じ。 これが見立ての核心です。
4-2. 弱声が「透る」ためには何が要るか
弱声がよく透る性質は、よく伸展された声帯がぴんと張ることによって生まれます。
加えてフースラーは、流れ出す呼気の密度もひと役買っているようだ、と推定の表現で付け加えています。「おそらく」「ようだ」と慎重に書かれている点は、そのまま尊重すべきところです。
4-3. 透らない弱声には、二つの原因がある
透らない弱声には、対照的な二つの原因があります。
ひとつめは、声門のすき間が広すぎる場合です。流れ出る呼気のすべてを、声帯の振動に変換しきれないため、声が透りません。
ふたつめは、いわゆる「圧迫発声」です。ぴんと張った声帯が、強い呼気の圧迫に耐えきれず、息が漏れてしまう状態です。
前者は、声門が閉じきれないことが原因。後者は、閉じているのに息の勢いに押し切られることが原因。弱く息が漏れるのと、強く押されて漏れるのとでは、処方がまったく違います。
4-4. 使ってよいピアノは二種類――「弱頭声」と「メザ・ヴォーチェ」
ピアノには、使ってもよい二つの種類があります。それぞれ、少し異なった方法で作られます。
ひとつは、いわゆる「弱頭声」。主として北欧でよく用いられるものです。
もうひとつは、いわゆる「メザ・ヴォーチェ」。イタリア流派のやり方です。
両者の違いを整理すると、こうなります。
| 伸展筋 | 声帯縁の筋(披裂-声帯筋、甲状-声帯筋) | 響きの特徴 | |
|---|---|---|---|
| 弱頭声 | 強く働く | 欠ける/非常に弱い | 漂うような、本来の弱さ |
| メザ・ヴォーチェ | 強く働く | さらに加わる(おそらく少し強めに) | 金属性の響き、フル・ヴォイスとの違いは音量だけ |
「メザ・ヴォーチェ」が「半分の声」と呼ばれる由来は、ここにあります。声質はフル・ヴォイスとほぼ同じで、ただ音量だけが半分、という意味です。
4-5. 「弱頭声」はどう評価されているか
「弱頭声」は、声帯縁の筋肉の働きが欠けるか、非常に低下している場合に生まれる声です。本来の弱さを示すだけの声、とも言えます。
評価は地域によって分かれます。
南欧の聴衆には好まれません。彼らの音感覚的な好みにも、音声生理学的な状態に対する感受性にも、合わないのです。
しかし、この音色を「フル・ヴォイスに『つけ加えて』用いる」と話は変わります。美しい、漂うような特性が現れ、ドイツ・リートなどのスタイルでは欠かせないものになります。
つまり「弱頭声」は、それ単独で多用するものではなく、フル・ヴォイスに彩りとして加える使い方にこそ価値がある――というのがフースラーの評価です。
4-6. 「ひそかに出す声」「マイクロホン声」の落とし穴
弱声で歌おうとするとき、喉頭を支える筋肉(喉頭懸垂筋)を働かせないままにしておくと、「虚脱した」音質の声が生まれます。これを「ひそかに出す声」とも、「マイクロホン声」とも言います。
フースラーの警告はこうです。マイクロホンのすぐ前で抑制して歌うこと(現代の技術ではもはや絶対に必要なことではありませんが)と同様に、「ひそかに出す声」を多用していると、発声器官にとって危険なこともあり得る、と。
「そうしているとすぐに、永久的な喉頭懸垂筋の弛緩に陥り、大きなよく透る声を出すことは、間もなく不可能となる」
ここで誤解しないでください。フースラーは「マイクロホンを使うこと自体がダメだ」と言っているわけではありません。
問題視しているのは、喉頭を支える筋を休ませたまま弱く発する癖がつくと、支える力そのものが失われていく、という因果です。小声の多用が筋の弛緩を固定化する。これは生理学的な指摘として読むのが妥当でしょう。
5. マルテラート(強打アクセント)
5-1. 「打撃」と聞いて、声門を叩いてはいけません
正しいマルテラートは、機能的に見れば、かつての偉大なイタリア流派が「コルポ・ディ・ペット(胸部打撃)」と呼んだものに相当します。
ここでフースラーがわざわざ補足しているのは、これが「『声門打撃』とは全然別物である」という点です。名前は「打撃」でも、声門を叩くわけではありません。
ここは誤解しやすいところです。「打撃」と聞くと、喉の中で何かをぶつける動きを想像しがちです。しかしフースラーの言う「胸部打撃」はそうではなく、横隔膜・腹壁・背中の筋肉群の協力作業によって作られるものです。
5-2. 無害かつ美的に使える条件
このマルテラートが無害で、美的にも使えるものになるためには、二方向からの条件が同時に必要です。
- のどには、どんな硬さも無理強いもあってはならない
- 呼吸器官には、敏感な反応力と強い活動力が備わっていなければならない
この二つはセットで、片方だけでは成立しません。
具体的には、横隔膜・腹壁・背中の筋肉群が非常に敏速に協力作業を行い、その協力作業がさらに喉頭の働きと密接に協調する、という構図です。
そしてここで、決定的な制約が示されます。
このさい呼気の消費は、最小限にとどまる。どんなことがあっても呼気が駆動力になってはならないし、呼気はまったく声門の下に集積してはならない。
フースラーは、「強い音を出すには息を強く押し出すのが当たり前」という発想を真っ向から否定しています。息を駆動力にしないこと、息を声門の下にためないこと――この二つの否定こそが、マルテラートの正しさを定義する核です。
5-3. 訓練上の警告――いきなり本番形でやってはいけません
イタリア流派では、マルテラートはすぐれた訓練方法とされています。
しかしフースラーは警告します。長期間の訓練によって、上で述べた前提条件のすべてが作り出されていないうちに、この「打撃」を試みることには、断固として反対する、と。
ただし救済策もあります。この打撃は、まったく危険なしに、ファルセットで予行演習することができるのです。本番形ではなくファルセットで準備せよ、という具体的な提案です。
6. コロラチュラ
6-1. 「技巧」というイメージそのものが、間違っています
コロラチュラ(速い装飾的なパッセージ)について、今日では「何か技巧的なこと」「とにかく『技術的な』こと」と考える風潮があります。
しかしフースラーは、こう切り返します。
事実は、まったく反対なのである。
そして「まったく『未熟な』声で、最もかがやかしいコロラチュラが歌われることさえ、まれではない」と続けます。
つまり、「コロラチュラができる=高度な技術がある」という等式は成り立たない――これがフースラーの主張です。
6-2. なぜ「未熟な声」でも流麗に歌えてしまうのか
理由は、こうです。
発声器官が目覚めていて、神経支配が行き届いていて、動的な活動が自由にできる状態であれば、歌うときに必要などんな動きでも、流暢に片づけることは器官にとってきわめて簡単なことなのです。低い声でも高い声でも、同じです。
つまりコロラチュラは、「特別な追加技能」ではなく、発声器官が本来の状態にあれば自然に出てくる動きの一種、という位置づけになります。
6-3. 「すらすら流れない」のは、何かが妨害しているからです
フースラーは対偶でも論じます。
「すらすらと流れない」声は、予想し得る多くの原因のうちの、ひとつないしはいくつかによって、阻止され、遮断され、妨害されているのである。
流れないのは、技術不足ではありません。何かが邪魔をしているのです。
そこからフースラーは、コロラチュラ練習の意義を再定義します。
「技術」を獲得するためにコロラチュラを練習するのではない。発声器官を生き生きさせるために、発声器官の真の本性を目覚めさせるために、コロラチュラを練習するのである。
主従の関係が逆転しています。技術のための練習ではなく、器官を覚醒させるための練習だ、というわけです。
6-4. 聴覚に原因がある場合もあります
例外もあります。流暢さのなさが、聴覚に原因することもあるのです。
たとえば、8音の簡単なつながりを、あらかじめ聞いて覚えておくことができない歌い手がいます。そういう人にとっては、最もよく解放された発声器官でさえ、役に立ちません。
さらに、その歌い手が音楽的な意味で1音ずつ前もって探らなければならないとすれば、その「探り」そのものが発声器官に停滞と硬化を招く可能性があります。
ここにフースラーの見方が現れています。音楽的な聴き取りと、発声器官の状態は連動する。聴覚の問題が、発声器官の硬化を呼ぶ――そういう因果が描かれているのです。
7. トリル
7-1. トリルの正体
トリルの過程は、喉頭のいわゆる「ゆさぶり運動」だと述べられています。これはフースラー自身の断定ではなく、十分に研究されてきた知見の引用、という体裁です。
7-2. 意識して震わせるのではなく、固定が外れた結果として揺れる
フースラーによれば、この運動はアンザッツNo.2の練習によって、「最も早く、最も無技巧的に」開発できます。
かっこ書きで「なぜなら、『技術』というものは決してそんなものであるはずはない」と添えられているのは、コロラチュラの節と一貫した立場です。
このアンザッツによって、喉頭は下方につなぎ留められ、すべての妨害的な固定から逃れます。すると、担当の筋肉が、トリルに必要な程度の自動性を獲得するのです。
ここでも要は、「自動性」がキーワードです。意識して震わせるのではなく、固定が外れた結果として勝手に揺れる――この筋立てです。
8. メッサ・ディ・ヴォーチェ
8-1. 古典的な「メッサ・ディ・ヴォーチェ」が意味していたもの
今日「メッサ・ディ・ヴォーチェ」と聞くと、ひとつの音の上でクレッシェンド・デクレッシェンドする練習課題、というイメージで受け取られがちです。
しかしフースラーは、それは古典的な意味の縮小版にすぎない、と言います。
古典的イタリア流派で意味していたのは、もっと広いものでした。漸強漸弱の何回もの繰り返しさえも楽しめるような歌い方、広い範囲にかけられた弧線をも歌い通せるような歌い方、歌の旋律の流れを決して断ち切るようなことをしない歌い方――これは当時の声楽曲のスタイルから、明らかに推論できる、とフースラーは述べます。
8-2. 「もちこたえる仕事」という生理学的問題
ここでフースラーは、声をふくらませることのほかに「声の長さ」という要素を加えます。
長時間にわたって発声器官を運動状態に保ち続けること――これは非常に印象的な音声上の事象です。
フースラーは生理学者の用語を借ります。筋肉の「もちこたえる仕事」、すなわち「長く続きながら、非常にゆっくりと減弱してゆくような筋肉の収縮の仕方」は、個々の筋肉にとってさえ特別にむずかしいことです。
発声器官には、共同作業をしているたくさんの筋肉があります。だからこの「もちこたえる仕事」は、最高級の問題であるに違いないのです。
8-3. すべての声楽訓練の最終目的
フースラーは問いの形で提示します。
筋肉の固定に陥ることなく、この「もちこたえる仕事」を大規模にやりとげる能力――この能力にこそ、すべての声楽的訓練の最終目的があるのではなかろうか。
しかし現実は厳しいものです。
現代の最もすぐれた歌手によってすら、この目的を完全に達成されることは、もうまったくないといってよいほどだ。
今日できることの実態は、こうです。多くの歌い手は、かろうじて数秒間だけ発声器官を持続して維持できるだけ。しかもそれは、そのたびごとに一度瓦解してしまい、絶えず新たに立て直さなければならない。本当のことを言えば、思うようにならない筋肉群との、終わりのない闘争でしかない、と。
したがって、真の「メッサ・ディ・ヴォーチェ」は、決して作ることはできないのです。
今日の比較的よい歌い手にできることは、声をある程度ふくらませることだけ。多くは声の強さの減弱まで持っていける程度。それさえ怪しい場合は、ピアノとフォルテを並べ立てるだけで終わってしまいます。
8-4. 「精神的なもの」と「自然主義」――順序の問題です
ここでフースラーは、技量と精神性の関係に踏み込みます。
かつて芸術は「技量的能力」から導き出されるものとされていました。今や「精神的なもの(空想、表現、感情)」から導き出すものとされています。
そしてフースラーは手厳しく言います。
ただ残念なことに、声楽芸術ではこの動向が、ほとんど例外なく「不健康などうしようもない自然主義」で終ってしまっている。
フースラーの言う「自然主義」とは何か。それは、多かれ少なかれ情熱を込めて、ある楽器で音楽を奏でることです。ただしその楽器は、正常な発声器官が持つすべての欠陥(あるいは少なくとも数多くの欠陥)に取り憑かれており、本来あるべき自然の姿からは遠く隔たっているのです。
これに対してフースラーは、本来の「自然」を提示します。
発声器官の自然の法則性に従ってでき上がった「技量的能力」こそ、完全に解放された純粋の自然である。もちろんそれは、統制のもとに置かれている。
そして「音楽的教養とは、自然に与えられた能力の卓越した支配力である」と定義します。
完全な自然さがすべての「自然主義」を克服し去ったとき、はじめてその楽器によって「精神的なもの」を実際に表現することができる――これが結論です。
ここで誤解しないでください。フースラーは「精神性を表現してはいけない」と言っているわけではありません。順序の話をしています。土台としての技量的自然がなければ、精神的なものを表現したつもりでも、それは「苦しそうで不愉快な産物」にしかならない、というのがフースラーの見立てです。
9. ベル・カント
9-1. 「ベル・カント」概念の劣化
フースラーはこう書き出します。
偉大なる歌の伝統がいかにはなはだしく瓦解してしまっているかは、今日一般に、まったく誤った考え方が「ベル・カント」という概念と結びついてしまったことからだけでも明らかである。
かつて「ベル・カント」で了解されていたことは、「メッサ・ディ・ヴォーチェ」に関して述べたことと大体において一致します。少なくとも「美しく滑らかに結ばれた歌い方」に必要な前提条件と、同じものなのです。
つまりベル・カントとは、独立した美学的概念であるだけでなく、「美しく結ぶ歌い方」の生理学的条件と一致しているもの――この二重の位置づけが本来の姿です。
9-2. 美学と生理学の一致
フースラーは強調します。
ベル・カントは、たまたま著しく高められた美学的欲求だけによって生じたのではない。この理想的な歌声の概念は、同時に、歌うために発声器官で守られなければならない生理学的法則と、きわめて正確に合致したのである。
ベル・カントは「美しさを追求した結果、たまたまそうなった様式」ではありません。健全な発声の生理学的法則と一致していた――これがフースラーの主張です。
そこから結論が導かれます。
正しい歌唱とは(健康を維持するためという観点からみただけでさえ)、初めに理解されていた「ベル・カント」そのものでなければならないのは、今でも変わりがない。
9-3. 「イタリア語でしか歌えない」説への反駁
「ベル・カントは、イタリア音楽に限ってそれで歌うことができ、イタリア語以外のどんな言葉でも、それはできない」と書かれたものがあります。
フースラーは、これによって「ベル・カントの概念に対する誤解がまったく明らかとなる」と切り捨てます。
そして皮肉を込めて、その帰結を整理します。もしその見解が正しいなら、こうなるはずです。イタリアの声楽曲(およびバッハ、ヘンデル、グルック、モーツァルトらをも含む)を、イタリア語以外の言葉で歌うすべての解釈は「様式をなさない誤った結果にしかならない」。しかも、これは決して冗談ではない。イタリア語でない声楽曲は、「誤った働き方をしている発声器官によってのみ、解釈されることができる」ということになる、と。
フースラーの論調は、この帰結のばかばかしさによって、元の主張を反証する形になっています。ベル・カントが言語に縛られる、というのは概念の取り違えなのです。
9-4. 「もう知ることができない」説への反駁
もうひとつ、フースラーが反駁する見解があります。「ベル・カント流派については論議できない、なぜなら、それが実際にどんなものであったかを、もはや知ることができないからだ」というものです。
フースラーは「しかしどうしてこんな意見が成立したのか理解に苦しむ」と言います。
理由はこうです。伝えられている資料の数々と、生理学的な数多の知見、そしていくつかの論理から、ベル・カント時代の偉大な歌手たちが発声器官を使っていたやり方を、容易に再現することができるから、というのです。
9-5. 「ひと息で50秒以上」という証拠からの逆算
フースラーは、具体的な逆算を行います。
ひと息で50秒間以上歌え、大きなスラーのフレージングをやりながら、同時に最もすばらしいパッセージやメリスマも思うままにやれる歌い手なら、決して呼気を浪費していないはずです。
そこからフースラーは、必要条件を順に挙げていきます。
| 条件が欠けると… | こうなってしまう |
|---|---|
| 声門閉鎖機能が悪い | 呼気をむだにする |
| 声帯内の筋肉を自由に緊張・弛緩させられない | 圧迫呼気で増強せざるを得ず、これも呼気をむだにする |
| 声帯伸展筋・喉頭懸垂筋全体の発達が悪い | 全面的な息の短さを来たす |
つまり、50秒以上歌えるという結果が成立するためには、これらすべてが満たされていなければならないのです。だから呼吸器官も、最も完全に訓練され、統御されているに違いない――こう結論されます。
ここでフースラーは、重要な留保を加えます。
多くの人が信じているような、何かある不思議なやり方をやり、それによって莫大な量の空気をためているのではない。
50秒の秘密は「特別な吸気法」ではなく、「呼気の浪費がない器官の完全さ」にある――これがフースラーの強調点です。
最後にフースラーは、こう添えています。「このような歌い手を完成させるには、9ないし10年という長い訓練期間を必要とする」。
9-6. 今日「ベル・カント」と呼ばれているものへの評価
北欧諸国では「ベル・カント」を軽蔑的に解することがきわめて多い、とフースラーは指摘します。しかしそれは、古典的な声楽流派の考えとはまったく関係ありません。
今日その国々で試みられている「ベル・カント」なるものは、「漫画以上の何物でもない」。その縮小版のようなもので(「ちょっとかわいらしく歌う」)、頽廃的になった声楽の理想のもとに、よく開発されていない発声器官によって作り出されるものだ、と評価されます。
そのため、比較的単純ではあっても、いくらか有能な「自然主義者」たちは、それを厳正に拒否するのです。
9-7. 「新しい法則」で古典を否定する試みについて
フースラーは最後に、繰り返し行われてきた試みに一言を添えます。「新しい法則」によって新しい声楽の流儀を建設するために、古典的な流儀を否定しようとする試みです。
われわれも認めなければならないように、こういう試みは決して成功したためしがない。
理由はこうです。それは「発声器官に対して天から与えられている法則を否定すること」以外の何物でもないからです。
そして、全盛期の偉大なイタリアの巨匠たちは、「聴覚を通しての驚異的な直覚」によってその法則を認識していたのであり、その法則の上に流儀を設立したのです。
ここは読み落としやすいところです。フースラーは、巨匠たちが「理屈で」法則を見つけたとは言っていません。「直覚で」発見したのです。直覚的に発見された法則を、後の生理学が裏づけている――この構図を押さえてください。
9-8. マッテゾンの「土に穴を掘って叫べ」
フースラーは、誤った試みの代表例として、ヨハン・マッテゾン(Johann Mattheson, 1681-1764)が当時の北欧の歌い手たちに薦めた方式を紹介します。
「野原の人のいない所へ行って、土の中へ小さくてもよいが深い穴を掘りなさい。その穴に口をもっていって、たいした無理をしないでできるだけ、高く、長く、その中へ向かって大声を出しなさい。それによって、あるいはそんなふうにしてしばしば行なわれる練習によって、声の道具は、ことに声変りの最中の者には、管楽器と同様に、非常に滑らかできれいになる。管楽器は、使われれば使われるほど、空気できれいにされて、よく鳴るようになるのだ」
フースラーはこれを「愉快な気晴らしにもなるし、深く考えれば反省の資料にもなる」と前置きしています。
そして、ある大家がこの「ありがたい教導」を再発見した際の所見を引きます。マッテゾンは「力強いドイツの流儀によって、いつかはイタリア人をやっつけてしまいたいと思った」らしい、というのです。
フースラーがここで示したい筋道は、9-7と地続きです。古典的な法則を脇に置いて「新しい流儀」を立てようとする試みの失敗例として、マッテゾンの教導が挙げられているのです。
9-9. カール大帝の逸話――「歌の故郷」はどこか
最後に、あまり知られていないこととして、すぐれた歌唱の本当の故郷をどこに求めるべきかという問題が、「とっくの昔に、『古典的』声楽時代のもっと以前にすでに決定されていた」とフースラーは述べます。
8〜9世紀ごろの古代フランクの北方の国。キリスト教国家の皇帝であったカール大帝は、伝えられるところによると、まったく個人的にローマの大家の指導のもとに、教会の歌のためのモデル・スクールをメッツに創設しました。
そこで、こんな問答がありました。
彼の国の人々が、自分たちの上に置かれたイタリア人の先生にやきもちをやってぶつぶつ言うので、皇帝はこう試みたのです。
「河の水は、その源と河口とではどちらがきれいだろう?」
「もちろん、源です」
そこで皇帝は結論しました。
「それは歌でも同じなのだ。『それが生まれた所が、最も純粋なのだ』」
すなわち、それはイタリアなのである、とフースラーは引き締めます。
ここで誤解しないでください。フースラーはこの逸話を、「イタリア人だけが歌える」と言うために引いているのではありません。9-3でフースラー自身が「イタリア語でしか歌えない」説を否定していたことを思い出してください。
フースラーがこの逸話で示唆しているのは、声楽的な源流(生理学的法則と直覚的に一致した流派)の歴史的な所在地としてのイタリア、という位置づけであって、言語の専有を主張するものではないのです。
まとめ
この記事で見てきたフースラーの主張をまとめると、こうなります。
- フレージングは、意志で作るものではなく、発声器官の協調から自動的に生まれる
- フォルテは、声帯の収縮による”本体”と、共鳴腔の拡張による”ふくらみ”の合わせ技
- 誤ったフォルテには、呼気で押し下げる型と、声門を暴力的に締める型の二種類がある
- ピアノは、ただ弱く歌うことではなく、フォルテと同じ土台(喉頭の安定)の上に成り立つ
- 「ひそかに出す声」の多用は、支える力そのものを失わせる危険がある
- マルテラートは声門打撃ではなく胸部打撃。息を駆動力にせず、声門の下にためないことが核
- コロラチュラは技術ではなく、発声器官の解放の結果として現れる
- トリルは意識して震わせるのではなく、固定が外れた結果として揺れる
- メッサ・ディ・ヴォーチェの本質は「もちこたえる仕事」。これこそすべての声楽訓練の最終目的
- 「精神的表現」は技量的自然の上にしか乗らない。順序が逆ではいけない
- ベル・カントは美学概念であると同時に、生理学的法則と一致した歌い方そのもの
- 50秒以上歌える秘密は「特別な吸気法」ではなく、「呼気の浪費がない器官の完全さ」にある
これらすべてを貫いているのは、ひとつの視点です。
声楽の技法は、意志や技巧で「作る」ものではない。発声器官が本来の状態で協調したときに、結果として「現れる」ものである。
「がんばって出す」のではなく、「邪魔を取り除いて、出てくる状態を作る」――この発想の転換こそが、フースラーの一貫したメッセージです。
次章は下記からご確認ください。
フースラーメソード徹底解説12:声種について|歌うこと11章 声種
フースラーメソード徹底解説記事
フースラーメソードを徹底解説①|著書「うたうこと」の基礎原理を詳しく解説
フースラー「歌うこと」解説② 第2章「まず聞く、それから知る」解説
フースラー「歌うこと」解説③ 第3章「発声器官の統一」を徹底解説
フースラーメソード徹底解説⑥正しい呼吸と間違った呼吸の違いとは|歌うこと第4章「解剖と生理」3部「呼吸器官」から
フースラーメソード徹底解説⑦唇・舌・口蓋・口蓋垂の問題と新説でフースラーが伝えたい事|歌うこと第5章「唇・舌・口蓋・口蓋垂について」第6章「自発振動」から
フースラーメソード徹底解説⑧声区(レジスター)について|歌うこと7章「声区」より
フースラーメソード徹底解説⑨アンザッツは本当に必要か?|歌うこと8章「アンザッツ」より
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