ボイストレーナー小谷です。今回は第11章「声種」を解説します。
前回解説「フースラーメソード徹底解説11:声楽演奏のための種々な要素」を未読の方は下記をご確認ください。
https://voitoreyktn.com/voice-production-theory/post-18476/
声楽を学び始めると、わりと早い段階で「あなたはソプラノ」「あなたはバリトン」と言われる場面があります。
先生の判断だから正しいのだろう、と納得する人もいれば、どこか引っかかりを感じる人もいるのではないでしょうか。
「高い音が苦しいからアルトなのかな」「低音が響くからバリトンなのかな」——そんなふうに、出せる音域だけで声種が決まるものだと考えていませんか。
フースラーの『うたうこと』第11章「声種」は、まさにこの問いに正面から切り込んでいます。
この章を読むと、声種の判定がいかにむずかしく、いかに多くの誤解がまかり通っているかが見えてきます。
この記事では、第11章の内容を順番にたどりながら、著者がどんな論理で何を主張しているのかを紹介していきます。
目次
1. 声域の一覧表は「目安」にすぎない
フースラーは章の冒頭で、バス・バリトン・テノール・アルト・ソプラノの声域表を示しています。
関係文献にはこうした一覧が載っている、という事実の紹介です。
ただし、ここで重要なのは、フースラーがこの表を「正解」として提示しているわけではないということです。
表を見せた直後に「はっきりしておかなければならないことがある」と書いており、この表をそのまま鵜呑みにしてはいけないという前提を読者に伝えています。
声楽の教科書やウェブサイトでも、声種ごとの音域がきれいに区分された表はよく見かけます。
しかしフースラーは、その表を出発点にしつつも、「それだけでは声種は決まらない」という議論をここから展開していくのです。
2. 訓練前の声域では、声種はわからない
フースラーの主張の出発点は明快です。
ある声が、訓練の始めに見出される声域は、その声の属する声種を示すことは、まれにあるだけだ。
つまり、まだ訓練を受けていない段階でその人が出せる音の範囲を測っても、本当の声種と一致するのは例外的なケースだけだ、ということです。
これを裏づける例として、フースラーは二つの観察を挙げています。
一つは、高いソプラノでありながら、低い方向ではアルトよりも広い声域をもっている人がよくいるということ。
もう一つは、アルトでありながらファルセット声区(裏声の領域)が非常によく発達していて、ソプラノの音域よりさらに高い声が出せるケースもたびたびあるということです。
そして「男声にしてもそれと同じことが当てはまる」と付け加えています。
ここで伝えたいのは、「出せる音域の幅」と「その人が本来属する声種」は別のものだという認識です。
たとえば低い音がたくさん出るからといってアルトとは限らないし、高い音が出るからといってソプラノとも限りません。
▼ 読み落としやすいポイント
「ファルセット声区が発達しているアルト」と聞くと、「それはもうソプラノなのでは?」と思いたくなるかもしれません。
しかしフースラーは、そういう結論は述べていません。
あくまで「アルトなのに、ソプラノより高い音が出ることもある」という事実を示しているだけです。
音域の広さだけで声種を判定する危うさを浮き彫りにするための例だと読み取ることが大切です。
3. 喉頭鏡も万能ではない ―― 判定手段の問題
3-1. 解剖学的な像は「まったく当てにならない」
まず、喉頭鏡(こうとうきょう)で喉頭の状態を見て判断する方法について、フースラーは「まったく当てにならない」と断じています。
その根拠は、専門医たちが同じ患者を診ても結論がバラバラになることがしばしばある、というものです。
医学的な検査であっても、声種の判定においては信頼できる基準にはならない——これはかなり強い主張です。
3-2. 音色による判定が「最もよい」、ただし条件つき
次にフースラーが挙げるのが、声の音色から判定する方法です。
これが「やはり最もよいやり方」だと述べています。
ただし、すぐに条件が続きます。
「そういう診断に熟練している人にとっては」の話だ、と明記しているのです。
なぜ熟練が必要なのか。
フースラーの説明によれば、声の音色には二つの成分が混ざっているからです。
一つは「頭器官の使い方によって作られる音色」——つまり、歌い方や発声のクセなど、後天的な要因で生まれる音色です。
もう一つは「声帯の特前の特質(その形、その実質……その他の性質)によって生じる音色」——こちらは声帯そのものが持っている、いわば先天的な音色です。
この二つは「区別し難いことが多い」とフースラーは言います。
つまり、聞いている音色が「この人の歌い方のクセなのか」「この人の声帯がもともと持っている特徴なのか」を判別できる耳がなければ、音色判定は正しく機能しないということです。
3-3. もう一つの手がかり:高音域を「維持」できるかどうか
音色のほかにも手がかりがある、とフースラーは補足しています。
それは、その声が「高音域を維持することが、どんなにたやすいか、どんなに困難か」を見ることです。
ここには二つの重要な前提条件がつけられています。
第一に、「開放された声として」という条件。
つまり、声が十分に解放された状態でなければ、この手がかりは使えません。
第二に、「個々の音高のことではない」という限定。
一つの高い音が瞬間的に出るかどうかではなく、高い音域に「居続けられるかどうか」がポイントだということです。
この区別は実践的にもとても重要で、「最高音が何の音か」で声種を決めるのではなく、「ある程度の高さの音域で楽に歌い続けられるか」を見る、という発想の転換が含まれています。
4. 判定に迷ったらどうするか ―― 「早まった決定を捨てよ」
声種の判定が困難なとき、フースラーが推奨する手順は非常にシンプルです。
どんな早まった決定も、ひとまず捨ててしまって、声を徹底的に開放してやるのである。そうすれば声域は、まったく自然にはっきりするのである。
「この人はバリトンだろう」「この人はアルトだろう」といった先入観をいったん全部捨てる。
そのうえで、声を徹底的に解放する訓練を行う。
すると、本当の声域がおのずと見えてくる。
この主張は、前のセクション(訓練前の声域では声種はわからない)とセットになっています。
訓練前の窮屈な状態では見えなかったものが、声を解放したあとには自然と現れてくる——そういう対比構造です。
5. 「覆面のテノール」と「覆面のソプラノ」という問題
フースラーが「実際にいつもくり返して起る事例」として紹介するのが、覆面のテノールと覆面のソプラノです。
これは、本来テノールやソプラノであるのに、別の声種として扱われている人たちのことを指しています。
テノールの場合:
いわゆる「中声」をそのまま上に持っていく歌い方をしているため、高音域が足りないように聞こえる。
その結果、バリトンだと判定されてしまう。
ソプラノの場合:
いわゆる「胸声区」を無理に使っているため、声が低く重く聞こえる。
その結果、アルトだと見なされてしまう。
では、なぜ彼らは高音が意のままにならないのか。
フースラーはその原因をはっきり述べています。
低い声を本物らしく見せかけるために、低音域を過度に強調しなければならないからである。
つまり、本来高い声を持っている人が低声種のように歌おうとするあまり、低音域に力を集中させてしまっている。
その結果、高音域に回せるエネルギーがなくなっている——という構図です。
▼ 読み落としやすいポイント
「高音が出ないのだから、テノールではなくバリトンだろう」と考えるのは、一見すると理にかなっているように思えます。
しかしフースラーは、まさにその判断のしかたが誤りだと言っています。
高音が出ない原因が「本来の声種と違う歌い方をしているから」であれば、高音が出ないこと自体は声種の証拠にはならないのです。
6. 「高音が出る・出ない」は声種の証明にはならない
フースラーはここで念を押しています。
高音が足りなくても低音が足りなくても、あるいは高音が十分でも低音が十分でも、必ずしも高い声種だとか低い声種だという証明にはならない。
高い音が出る、出ない。低い音が出る、出ない。
そのどれをとっても、それだけでは声種の根拠にはならないという主張です。
覆面のテノールやソプラノの例で見たように、見かけの音域は歌い方の習慣によって容易に歪むものだからです。
7. 音声専門医への批判 ―― 「破滅した声」の本当の原因
フースラーの筆は、ここから音声専門医(声の医学的な専門家)への批判に向かいます。
残念なことには、この点でいつも行なわれる誤った結論が、ことにしばしば、音声専門医によってもさらに助長されているのである。
具体例として、ある有名な音声学者の著書からの引用を紹介しています。
その引用の趣旨はこうです。
「自然がバリトンやメゾ・ソプラノに定めていた声を、教師がテノールやソプラノに訓練してしまったから、声が破滅した」。
つまり、この音声学者は「本来低い声種の人を、無理に高い声種として鍛えたから壊れた」と言っているのです。
7-1. フースラーの反論 ―― 限界は「小さく見られすぎている」
フースラーはこの見解に真っ向から反論します。
自然が声の限界を定めること自体は否定しません。
しかし、「その限界は著しく小さく見られすぎている」と言います。
その理由は、「ふつうの人間の声は、その未開放性のために、ほとんどその全部の可能性を示すことはない」からです。
多くの人の声はまだ十分に解放されていない状態にあり、その段階で見える音域は本来の可能性のごく一部にすぎない——だから限界を低く見積もってしまうのだ、という論理です。
ここでフースラーは重要な概念を持ち出します。
「状態と素質との区別を知らなければならない」。
「状態」とは、今現在のその声がどう出ているかということ。
「素質」とは、その声がもともと持っている潜在的な可能性のこと。
多くの場合、判断されているのは「状態」であって「素質」ではない。
しかし声種を決めるには「素質」を見なければならない——という対比がここにあります。
7-2. 「壊れた」のではなく「正しく訓練されなかった」
では、音声専門医が診る「破滅した声」は何が原因なのか。
フースラーの分析はこうです。
こういう声は、たいていは破滅してしまっているのではない。高音のほうへ鍛えようとして、あまりにはなはだしく努力しすぎたからである。そうでなければ、高音を生理的に正しく作り出すことを、彼らに教えなかったからである。
一見すると「努力しすぎた」と「教えてもらえなかった」は矛盾するように見えます。
しかしフースラーが言いたいのは、「がむしゃらに量をこなす努力は多かったが、正しい方法での訓練は足りなかった」ということです。
努力の方向と方法が間違っていた、という指摘です。
▼ 二つの見解の対立を整理する
音声学者の結論:
本来バリトンやメゾ・ソプラノの人を、テノールやソプラノに仕立てようとしたから壊れた。
→ 原因は「高声種として訓練したこと」にある。
フースラーの結論:
声が伸びなかったのは、正しい方法で高音を教えなかったから。
→ 原因は「訓練の質」にある。声種の割り当て自体が間違いだったのではない。
因果関係の矢印がまったく逆を向いていることに注意が必要です。
さらにフースラーは、現場の発声訓練教師の実務が専門医の見解とは逆のことを示していると指摘します。
「未開発の高音域をもっていて、アルトを歌っているソプラノや、バリトンを歌っているテノールは無数にいる」。
そして、こうした声楽学生たちは「まさにこの理由によって、おおむねその大多数が、人前で歌うところまで達しない」と言うのです。
本来の声種と違う声種を割り当てられたまま訓練を続けた結果、演奏者として世に出る段階に到達できない人が大多数だ——これはかなり重い指摘です。
8. 声種のあいだには「中間形」がある
フースラーはさらにもう一つの論点を加えます。
個々の声種のあいだには、あらゆる中間形が存在する
バス・バリトン・テノール・アルト・ソプラノという五つのカテゴリーは、作曲の都合上つくられた区分です。
フースラーは「自然は、作曲家のように合理的に声種を分けてはいない」と述べています。
つまり、実際の人間の声は五つのカテゴリーにきれいに収まるものではなく、その境目にも連続的にさまざまな声が分布しているということです。
虹の七色に少し似ています。
「赤」「橙」「黄」と名前をつけてはいますが、実際の虹は色と色のあいだに明確な境界がなく、連続したグラデーションになっています。
声種もそれと同じで、たとえば「バリトンとテノールのちょうど中間」のような声は当然存在しうる、とフースラーは考えているのです。
9. リリックとドラマティック ―― 声の「性格」の話
9-1. リリックな声がドラマティックに変わる危険
フースラーが警告するのは、「リリック」(叙情的)な声で出発した歌手が、途中でその性格を失い、「ドラマティック」(劇的)な声に変わってしまい、発声器官を壊すケースです。
この変化を「第2の声変り」と素朴に信じてしまう人もいるようですが、フースラーは「素朴に信じて」という言い回しでその理解を否定しています。
発声器官を壊してしまった場合の「最も確実な症状」として、フースラーは「ファルセットが失われている」ことを挙げています。
「必ず」という強い言葉が使われており、例外のない指標としてフースラーが重視していることがわかります。
9-2. 正しく高められた場合と、そうでない場合
ここにはもう一つ重要な対比があります。
正しい場合:
リリックな声の歌手が、発声器官の緊張状態を時間をかけてドラマティックなレベルにまで高めることができた場合、リリックな声は残っている。
つまり、両方の性格を持ったままでいられる。
正しくない場合:
「よくない歌手(芸術的および生理学的にみて)」がドラマティックな専門に変わった場合、もうリリックなものを歌うことはできない。
片道切符でドラマティックに移ってしまい、元に戻れなくなっている。
9-3. 声の性格を決めるものは何か
では、リリックかドラマティックかは何によって決まるのか。
フースラーは三つの要素を挙げています。
1つ目は声帯の形。
2つ目は声帯の緊張能力。
3つ目は呼吸器官の活力の度合い。
これらはすべて身体的・生理的な条件であり、気分やスタイルの問題ではないことが示されています。
ただし、最後にフースラーはこう補足しています。
強いドラマティックな効果は、純粋に芸術的に、歌の表情によって呼び起すことができる。
声そのものがドラマティックでなくても、歌の表情づけによってドラマティックな「効果」を作り出すことは可能だということです。
ただし、声の「性格」と表現上の「効果」は別物であることを、フースラーは区別しています。
おわりに ―― この章が投げかけるもの
フースラー『うたうこと』第11章が繰り返し主張しているのは、「安易に声種を決めつけてはならない」ということです。
訓練前の声域は当てにならない。
喉頭鏡の像も当てにならない。
音色の判定には高度な熟練が必要。
高音が出る・出ないだけでは証明にならない。
では何が頼りになるのかといえば、「声を徹底的に開放して、自然に声域がはっきりするのを待つ」こと。
そして、「状態」ではなく「素質」を見ること。
声楽を学んでいる人にとって、自分の声種は自分の音楽人生を左右する大きな問題です。
だからこそ、フースラーはここで何度も注意を促し、安易な判断に警鐘を鳴らしています。
もし今、自分の声種に違和感を覚えているなら、この章の議論は一度じっくり読む価値があるのではないでしょうか。
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