こんにちは、ボイストレーナー小谷です。
今回はフースラー『うたうこと』第19章「音声衰弱症」を読み解きます。
前回は「第18章「声の疲労」」を扱いました。未読の方は下記からどうぞ。
フースラーメソッド徹底解説19|その「声の疲れ」、本当に歌い過ぎが原因?『うたうこと』第18章「声の疲労」
フースラーがこの章で伝えたい結論は、とてもはっきりしています。
音声障害は「緊張を取り除くだけ」では治らない。
発声器官そのものがすでに弱っているのだから、緊張を取り除いたあとに、その器官を鍛え直す訓練が必要である。
そして、音声障害の原因をたったひとつに絞り込もうとする考え方にも、フースラーは疑問を投げかけているのです。
では、なぜフースラーがこの結論に至ったのでしょうか。
その理由を順を追って追いかけていきます。
1 出発点──1956年当時の主流の学説
フースラーはまず、当時(1956年)よく知られていた学説を紹介することから議論を始めます。
その学説は、音声障害の原因を次のように説明していました。
外からの刺激に対して、神経系が過敏に反応するようになる。
すると「受動的な病的興奮状態」が発生します。
つまり、本人が意図していないのに、神経が勝手に高ぶってしまうのです。
そこに「志向中枢」(意志や注意を向ける脳の働き)が無意識のうちに加担し、やがて「主動的な緊張」──自分から進んで力んでしまう状態──が生まれる。
そして、その根本原因は「要請があまりにも多すぎる一方で、弛緩と休養による回復があまりにも少なすぎる」ことだと結論づけられていました。
この学説は、「大多数の音声障害の病因はこれである」と述べています。
フースラー自身も、「ここに書かれているような音声障害の事例は、実際にくり返し起きている」と認めています。
実際にどのような欠陥や故障が声にあらわれるのかは、前章にあたる第14章でくわしく扱われています。
▶ フースラーメソッド徹底解説15|のどの硬直・呼気圧迫・高音不足はなぜ起こるのか?『うたうこと』第14章「ふつう”の発声器官にみられる欠陥,弱点,故障,合併症」
ただし、これはあくまで「そういう事例が存在する」という事実を認めたにすぎません。
「音声障害のすべてがこの説で説明できる」とまでは、フースラーは言っていないのです。
ここが、この章を読み解くうえでの最初の分かれ道になります。
2 フースラーの中心的な主張──「緊張除去」だけでは足りない
では、フースラーはこの主流の学説に対してどう向き合ったのでしょうか。
フースラーの指摘はこうです。
過度の緊張による音声障害を治すことは「比較的容易な問題」である。
ところが、多くの声楽教師は、その「緊張過剰を取り除くこと」よくある「リラックス法」だけで改善されると思ってしまっている。
しかし、とフースラーは続けます。
たとえ「リラックス法」で緊張除去作業が完璧に行なわれたとしても、歌手、とりわけ職業歌手に対しては、はっきりした成果はあらわれないのです。
では、そのあとに必要となる訓練をどう進めるのか。その原則は第15章にまとめられています。
▶ フースラーメソッド徹底解説16|発声訓練はどう進めるべきか?『うたうこと』第15章「訓練の原則」
2-1 なぜ緊張を取り除いても足りないのか
その理由を、フースラーは次のように説明しています。
「リラックス法」によって過剰緊張が完全に取り除かれたとしても、そこに残るのは、
「過剰な緊張がなくなっただけの、衰弱した発声器官」
です。
つまり、その発声器官は、多種多様な軽度の萎縮や、慢性的な機能上の欠陥を抱えたままなのです。
ここが、フースラーの論理の核心にあたる部分です。
確かに、音声障害はもともとは神経支配の悪さが問題だったかもしれません。
しかし、フースラーは「もうとっくに、ふつうの固定的な状態になってしまっている」と指摘しています。
最初は神経の問題だったものが、時間を経るうちに、器官そのものの慢性的な衰弱状態として定着してしまっているのです。
つまり、発声器官の緊張を取り除いたとしても、それだけで健康な発声器官になるわけではありません。
緊張を取り除いたあとに残るのは、「弱ったままの発声器官」なのです。
これでは、歌手の声は根本的には改善されないのです。
2-2 「筋肉が固まっている」は「緊張しすぎている」とは限らない
フースラーはさらに踏み込みます。
歌手たちが「痙的強直」(けいてききょうちょく=筋肉が痙攣的に固まること)と呼んでいるものも、必ずしも緊張過度が原因ではない、と言うのです。
では、何が原因なのでしょうか。
フースラーの答えは明快です。
それは「機能的な構築のずれ」であり、「筋肉全般に目覚めていないか、あるいは衰弱している発声器官において、協調できていない結果」にほかならない、と述べています。
この指摘の意味するところは、とても大きなものです。
一般には「筋肉が固まっている」と聞くと、「力が入りすぎている」「緊張している」と考えがちです。
しかし、フースラーは、まったく逆の可能性を提示しています。
筋肉がそもそも十分に機能していないからこそ、うまく協調できず、その結果として固まったように見える、という見方です。
この違いは、対処法を根本的に変えてしまいます。
緊張過度が原因なら、リラックスが解決になります。
しかし、筋肉の衰弱や協調ができていない事が原因なら、必要なのはリラックスではなく、鍛え直す訓練なのです。
2-3 それでも緊張除去法はまったくの無意味ではない
ここで気をつけたいのは、フースラーが緊張除去療法を完全に否定しているわけではないという点です。
フースラー自身、「医学的な面からよく考えぬかれた緊張除去療法は、長く続く訓練の初めの、よい出発点とすることはできる」と明言しています。
そして、緊張を取り除いたあと、その後の訓練によって、発声器官の不健全な状態は完治される、と述べているのです。
つまり、フースラーにとって緊張除去は「出発点」にすぎません。
本質的な解決は、その後の訓練による器官そのものの改善にあるのです。
3 具体例──仙棘筋の萎縮
フースラーは注釈の中で、ひとつ具体的な例を挙げています。
「仙棘筋」(せんきょくきん)──背中をのばす筋束のことです。
この筋肉について、フースラーは「音楽のための楽器を作るための主要な支柱のひとつ」であると位置づけています。
つまり、発声を支える身体構造の要のひとつだと考えているのです。
背中や姿勢と発声の結びつきについては、呼吸器官を扱った第4章の解説もあわせてお読みください。
▶ フースラーメソード徹底解説⑥正しい呼吸と間違った呼吸の違いとは|歌うこと第4章「解剖と生理」3部「呼吸器官」から
そして、フースラーは「この筋束( 仙棘筋) は、ほとんど一般的に、軽度に萎縮している(脊柱前弯、まがり)」と指摘します。
ここからフースラーは、「それだけでもう、われわれのいう意味では、ふつうの人は音声衰弱的なのである」
要するに「既に多くの人は仙棘筋が軽度に萎縮しているので、多くの人はもう音声衰弱的になっている」という、やや踏み込んだ結論を導き出しています。
決定的なのは、次の一文です。
「しかしながら、緊張除去法は、この筋肉に、その欠けている能力をもたらしはしない」。
リラックスさせても、もともと弱い筋肉が強くなることはありません。
この具体例が、本章全体の主張の「緊張除去だけでは不十分である」を身体のひとつの部位で鮮やかに裏づけているのです。
4 音声障害は「ひとつの原因」に還元できるのか
章の後半で、フースラーはさらに大きな問いへと議論を進めます。
フースラーは「音声障害は、おそらく、たったひとつの分母でわり切って把握することはできないだろう」と述べています。
「たったひとつの分母でわり切って」という表現には、音声障害をひとつの原因にまとめて説明しようとする姿勢への強い疑問が込められています。
発声器官をばらばらの部品としてではなく、ひとつのまとまりとしてとらえる視点は、第3章で正面から論じられています。
▶ フースラー「歌うこと」解説③ 第3章「発声器官の統一」を徹底解説
4-1 「すべては中枢器官の問題だ」という見方への問い直し
フースラーが疑問を投げかけている対象は、こういう考え方です。
「音声障害の原因は、すべて中枢器官(脳や神経系)にある。
発声器官で起きていることは、単なる結果にすぎず、原因ではない」──この見方に対して、フースラーは「本当にそう言い切れるのだろうか」と問うています。
つまり、声の問題はすべて脳や神経の問題であり、喉や筋肉の状態は単なる結果にすぎないのだろうか。
そして、音声障害の問題を、あくまでも大脳生理学と心理学の問題として扱い続けてよいのだろうか──。
フースラーは、こうした学問的な位置づけそのものの再考を促しているのです。
4-2 科学に対するフースラーの留保
最後にフースラーは、次のように述べます。
「われわれは、結局は、科学がわれわれに約束した以上のものを、科学的研究に要求しているのかもしれない」。
これは、科学が音声障害の原因を完全に解明してくれる──という期待そのものが、われわれの側の過剰な要求かもしれない、という自省的な言葉です。
そして、フースラーはこう締めくくります。
「科学的な意味づけがどうあろうと、歌うことを職業としている人に対して、そう大した関係はないだろう」。
ここには、科学を軽視する意図はありません。
そうではなく、実際に歌を職業とする人にとって本当に重要なのは、声が実際に改善されるかどうかという実践的な事実である、という実務的な視点がフースラーの立場です。
科学的な因果関係の完全な解明を待つよりも、目の前の発声器官に向き合い、それを訓練によって鍛え直していく。
これが、フースラーの最終的なメッセージであると読み取ることができます。
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