ボイストレーナー小谷です。今回はフースラー『歌うこと』第2章「まず聞く、それから知る」を解説します。
第2章は、第1章で示された「この本は単なる発声の手順書ではない」という前提を土台に展開されています。第1章の内容を踏まえて読むことで、第2章の意図がより明確になります。
まだ第1章をお読みでない方は、先にこちらをご確認ください。
フースラー『歌うこと』第1章の解説はこちら
フースラーの『歌うこと』を読み直すたびに実感するのは、彼がこの本で語ろうとしているものが、いわゆる“教則本”のような「うまく歌うための手順書」ではないという点です。
とくに第2章は、発声の具体的なトレーニング方法を順序立てて解説している章ではありません。
むしろ、発声を学ぼうとするとき多くの人が当然のようにイメージする「学び方そのもの」を問い直す章です。
発声を学ぼうとする多くの人は、まず仕組みを理解しようとします。
声帯はどう振動するのか、横隔膜はどう働くのか、共鳴腔はどう声を増幅するのか。
こうした解剖学的・生理学的知識を得ることが上達への近道だと思うのは、ある意味で自然です。
現代社会の学びは、理論を理解し、理屈が通ったところから練習に入ることを前提になりがちです。
しかしフースラーは、ここに重要な落とし穴があると言います。
彼は声の問題を解決するために、解剖学や生理学を第一優先にしていません。
むしろ、それらは「必要な分だけに絞るべき」だと述べます。
理由は単純です。
知識の量がそのまま発声能力の向上につながるわけではないからです。
この章のフースラーの主張は、驚くほどシンプルです。
発声は「知ること」から始まらない。
発声は「聞くこと」から始まる。
ここでフースラーが論じているのは発声法ではなく、正しく学ぶ為の順序です。
そしてこの順序を誤れば、努力は空回りし、むしろ声を不自然な声を作為的に作ろうとしようとする方向へ傾きやすい、とフースラーは警告しています。
目次
フースラーがいう「具体から抽象へ」とは?
フースラーが第2章で一貫して主張している事は、「具体から抽象へ進め」ということです。
具体とは何か?それは、実際に耳に聞こえる声です。
実際に耳に聞こえる声、響き、声質の違いです。
では抽象とは何か?それは理論です。
発声のメカニズムの説明や、具体的な発声器官の働きのイメージ化された理解です。
フースラーはまず音像から始めよと言います。
音像とは、耳に聞こえる声のイメージのことです。
どんな声が明るいのか、どんな声が暗いのか。
硬い声とはどう聞こえるのか、柔らかい声とはどう聞こえるのか。
無理に押した声と自然に流れる声は、どこがどう違うのか。
こうした声質の違いを、「何となく」という曖昧なイメージではなく「はっきりと聞き分けられる」段階に達するまでは、理論へ進むべきではない、と彼は言います。
なぜなら音の違いを「はっきり聞き分けられない」状態で理論を学んでも、それは実践と結びつかないからです。
たとえば「声が硬い」と言われたとします。
しかしその声の硬さが、具体的にどんな響きとして自分の耳にどのように聞こえているのか分からなければ、たとえ「声が硬くなっている」原因を理論で説明されても、本人には「自分の声が硬い」という実感がありません。だから、説明されても納得しにくいでしょう。
するとどうなるか?頭の中には「声が硬い」という理論の説明が残る。
しかし本人は自分の声が硬い実感が無いので何をどうして良いか分からない。
このような状態が起こります。
順序が逆転すると、理論は改善のツールではなく「何の目的か分からない設計図」になります。
音のイメージとは「目的」であり、理論は「設計図」のようなものです。
音のイメージ(目的)が無い状態で理論や知識(設計図)だけで声を出そうとすると、過剰に頭で考えて声を出そうとし、その結果、声は抑圧され声に『鍵がかかった状態』になります
フースラーが危険だと言うのは、このような流れです。
フースラーが強調するなぜ「聞くこと」が重要なるのか?
では、なぜフースラーはここまで「聞くこと」を強調するのでしょうか。
その理由として彼が挙げるのが、耳という感覚器官の特徴です。
フースラーは聴覚と視覚の違いに言及します。
視覚は分析的で、目に見えるものを分解し、構造を把握し緻密に理解しようとする特徴を持つ。だから人は目に見えるものを対象にすると理解が進めやすい。
一方、聴覚はより原始的な感覚で、音をそのまま受け取り全体として感じ取ります。
さらに聴覚は原因と結果を視覚ほど緻密に理解する事が得意ではありませんが音の違いを聞き分けられる能力は本来備わっています。
しかしフースラーは「現代人の聴覚は本来持っている音の違い聞き分ける能力が弱っている」と問題視しています。
その事をフースラーは耳の「健康状態」の問題として捉えます。
「健康状態」とは何らかの病気や耳そのものの機能が失われたわけではありません。
フースラーが言いたいのは「声の違いを聞き取れないほど耳の機能が鈍くなっている」という事です。
現代社会は視覚中心です。
文字を読み、イラストを見て理解する学習には慣れている。
だから発声訓練も「見て理解する」方向へ傾きやすい。
しかし声は目に見えないものです。
本来、声は耳を通して理解されるべきものなのに、理論が先行し耳を使って理解する事を後回しにされる。これが根本的な問題です。
耳を使わないなまま理論を学ぶとどうなるでしょうか。
知識は増えます。
しかし、耳で理解した音のイメージはありませんので、その知識は具体的な音のイメージと結びつけられない。
例えば、ある料理のレシピがあります。しかし見たことも食べた事も無い料理のレシピなので作ってみても、これが正解なのかも分からない状態です。
正解か分からないとどうなるでしょう?
本当に完成されているのか不安になり過剰に完成された料理を確認したり、場合によっては「このレシピのこれは本当はこうなのでは?」とレシピを拡大解釈して何かを付け足したりしてしまうでしょう。そうすると本来の料理とは違うものになってしまいます。
正しい順序で学ばないと理論が実践を助けるどころか、混乱を招くことがあります。
理論を理解したはずなのに声が変わらない。
説明が増えるほど、何が正しいのかわからなくなる。
フースラーが「無用な博識」という表現を使うのは、まさにこうした状態を指していると考えられます。
発声は模倣から始まる
フースラーは、発声が耳に強く関係している証拠として「模倣」を挙げます。
私たちは言葉をどうやって覚えたでしょうか。
最初に理屈を教わったわけではありません。
まわりの大人の声を聞き、それを真似することで話せるようになりました。
つまり、まず聞くことが出発点でした。
歌も同じです。
先に楽譜の内容を理解するのではなく、まず音を聞き、その音に近づこうとして声を出します。聞いた音を目標にして、声を調整しているのです。
たとえ声を出すための発声器官があっても、耳で音を聞くことができなければ、自分の声がどうなっているのか分からず、正しく調整することができません。
このことからフースラーは、発声は耳で聞く事が「始まり」と考えます。
声を出す発声器官が正しく動くかは、「耳によって決まる」というわけです。
フースラーが考える改善とは耳と理解を結び直すこと
第2章でいちばん大切なのは「順番」です。
正しく学ぶ順番を守らないと、理論は実際の歌に役立たない、とフースラーは言います。
①まず聞く。
声の質の違いをはっきり聞き分けられる耳を持つことです。
たとえば、明るい声と暗い声、硬い声と柔らかい声、無理に押した声と自然に流れる声。
その違いを「なんとなく」ではなく、はっきり耳で聴いて区別できることが第一歩です。
②その上で知る。
耳で声質を聴き分けられても「なぜこの声になっているか?」が分からないと改善になりません。そこで初めて「知る」こと、つまり理論が意味を持ちます。
理論は先に覚えるものではなく、耳で理解したことを整理し、「この音のとき体はこうなっている」と理解するために使うものです。
要するに、耳で理解することと、頭で理解することを結びつけ修正すること。
それが声を改善するための核心だ、とフースラーは説明しているのです。
聴覚が導く正解への道筋──発声は反復練習で整う
発声は、「理論を覚えて、その通りに体を動かせば完成する」という単純なものではありません。
実際には、
声を出す → それを聞く → 修正する → もう一度出す、
という反復練習の中で少しずつ整っていきます。
この反復練習で重要になるのが「耳」です。
自分の声を聞き、その音を基準にして体を調整します。
音が変われば、体の使い方も変わります。
もし耳が働かなければ、自分の声がどうなっているのか分からないので、このような調整はできません。
このような反復練習で後述する体の中で感じる感覚(内部知覚)も、この流れの中で磨かれていきます。
ある響きの声を出したときの体の感覚を、音で何度も確かめることで、「この体の感覚だと、この音になる」という結びつきができていきます。
もし訓練で耳で聴いた音を基準にしなければ、体の感覚だけでは正しい発声かどうか判断できません。
だからフースラーは、「正しい発声は耳を使わないと始まらない」と強調します。
つまり、声を出す発声器官の働きは、耳によって導かれ、修正され、少しずつ磨かれていく。
そこに発声の大切な仕組みがある、と説明しているのです。
フースラーの内部知覚についての考え
この本が出た当時は、「声は耳ではなく、体の中の感覚(内部知覚)でコントロールしている」という考え方が広がっていました。
喉の開きや息の流れ、響きの振動などを感じながら声を整えているのだから、中心は“体感”だ、という考えです。
しかしフースラーは、内部知覚だけでは足りないと言いました。
体の感覚はたしかに大切だけれど、それが正しいかどうかは、実際に出た音を耳で確かめなければ分からない。
音を聞き、その結果をもとに調整してはじめてその内部知覚が正しいか分かる、という考えです。
例えば野球で、ボールを持たずにフォームだけ真似しても、「今の投げ方が良かったのか悪かったのか」は分かりません。
なぜなら、ボールを実際に投げた結果(ボールの軌道やスピード)が出ていないからです。
ボールを実際に投げた結果が出て初めて、「この感覚だとこうなる」と判断できます。
発声も同じだ、とフースラーは考えています。
体だけを動かしても、実際に声を出して音を聞かなければ、その動きが良いのかどうかは判断できません。なぜなら、声という「結果」が出ていないからです。
だからフースラーは声を出して、その音を聞くことを重要視しています。
音を聞いてはじめて、「この体の感じだとこういう響きになる」と分かるからです。
つまり、出発点はあくまで「聞くこと」だと考えました。
そして現在のボイトレでは、声は「出す→聞く→修正する」というくり返しの中で整えられる、という考え方が一般的になっています。
この点では、フースラーの考えに近い流れになっていると私は感じています。
フースラーの教育への示唆──説明より先に耳を育てる
この章でフースラーは、「教え方を変えなければならない」とも言っています。
指導者がどれだけ正しく発声器官のしくみを説明しても、生徒の耳が育っていなければ、その説明は役に立ちません。まず必要なのは、声の違いを聞き分ける力を養うことです。
これは指導者にも同じことが言えます。
声の質の違いを正確に聞き取れなければ、的確なアドバイスはできません。
体の部位の名前を説明する前に、「今どんな音が出ているのか」をきちんと聞き取ることが大切だ、ということです。
フースラーは、耳はもともと理屈を考える働きは弱い、と言います。
しかし、聞いた音をあとから頭で整理することはできます。
耳で聞き、頭で理解する。
この二つが結びついたとき、音はただの印象ではなく、「改善の手がかり」になります。
そのとき初めて、理論は実際の歌に役立つツールになる、とフースラーは考えているのです。
聴き分ける為に重要な事
ここで、少し補足として、私の考えをお伝えさせて頂きます。
ここまで読み進めると、「硬い声」「柔らかい声」といった教科書で決められた声の分類を
正しく理解しなければならない、と感じられた方もいらっしゃるかもしれません。
その感じ取り方は、半分は正しく、半分は少し違います。
フースラーが伝えようとしているのは、声を漠然と聴き流すのではなく、声の違いや声の変化耳で気づき、聴き分ける能力を養うべき という事です。
しかし、声のイメージには「全ての人にとって、これが唯一の正解」という共通のイメージがあるわけではありません。
たとえば、私がある声を「硬い声」と感じたとしても、あなたがそれを「弾力のある声」と感じたのであれば、その声はあなたにとって「弾力のある声」というイメージが正解です。
声は目に見えません。だからこそ、同じ声であっても、十人いれば十通りの声の聴こえ方や感じ方が生まれても不思議ではありません。まさに十人十色です。
もし他人に押しつけられた声の認識を「正解」として受け入れてしまうと、本当はそのように聴こえていないにもかかわらず、「そのように聴こえなければならない」と頭で考えすぎてしまいます。その結果、声は抑圧され、“鍵がかかった声”になってしまいます。
「自分にはどう聴こえているのか」「自分はどう感じているのか」という方向でボイストレーニングを行っていくと、ご自身の声のイメージを理解する力を養われ、自然に声の違いや変化に気づけるようになり、あなた自身にとって正解の声のイメージが生まれます。
だからこそ私は、レッスンの中で全ての生徒さんに「どう聴こえましたか?」「どのように感じましたか?」とお伺いしています。
正解の声のイメージは、私の中にあるのではなく、生徒さんの中にあると考えているからです。
そして本来のボイストレーナーの役割とは、ボイストレーナーの考える正解のイメージに生徒さんを無理に当てはめることではなく、生徒さんお一人おひとりの中にある“その人の正解イメージ”を引き出し、正しい順序でのボイストレーニングを通して、それぞれの正解イメージへと導いていくことだと、私は考えています。
まとめ──「まず聞く、それから知る」という原点
第2章が伝えているのは、発声訓練の原点への回帰です。
声は音であり、音は耳によって認識されます。
理論は必要ですが、それは音の理解を土台としなければなりません。
順序を誤れば、知識は操作になり、発声は不自然になります。
順序を守れば、知識は感覚を支え、発声は自然に整っていきます。
まず聞くこと。
それから知ること。
この単純な原則は、実は発声のすべてを方向づけています。
第2章は、その原則を思い出させる章なのです。
次の第3章は下記をご確認ください


