私はボイストレーナーとして、常に「現代人に本当に必要なボイストレーニングとは何か?」を問い続けています。
最新のボイトレ理論やメソッドを研究する一方で、過去の発声理論やボイトレ本の検証も行ってきました。

そうした検証の過程で、最近あらためてフースラーの著書『歌うこと』を読み返しました。
私自身、学生時代にフースラーメソードを取り入れている先生に師事し、その後、フースラーの高弟リンデンバウム氏のもとで学ばれた森昭彦先生の系統に属する方々から、数年間フースラーメソードを学びました。

その学びの中で、まず森昭彦先生の著書『新・発声入門』を読み、その緻密で体系的な発声理論に強い感銘を受けました。
その後、フースラーの『歌うこと』にも触れました。私は原語版ではなく、日本語訳版で読んでいます。
正直に言えば、この日本語訳版は誤訳や不自然な表現が多く、決して読みやすい本ではありません。
しかし、先に森昭彦先生著書『新・発声入門』を通してフースラーメソードの骨格を理解していたため、大きな混乱なく読み進めることができました。

そして年月が流れ、今回あらためて読み返してみると、単なる再確認にとどまらず、今の年齢、今の経験を経たからこそ理解できる内容や、新たに見えてくる発見が数多くありました。
同じ本であっても、読む側の立場や経験が変われば、そこから受け取るものも変わる。そのことを、今回の再読であらためて実感しています。

前提として明確にしておきたいのは、フースラーの『歌うこと』は、発声の理論を体系的に整えた理論書であって、具体的なボイストレーニングの方法を順序立てて解説する教則本ではありません
さらに言えば、この本が書かれた当時、いわゆる「フースラーメソード」は、完成されたボイストレーニング方法として確立していたわけでもありません。
本書は方法論の提示というよりも、歌とは何か、声とは何かという根本原理を問い直した思想の書に近いものです。

では、なぜ今あらためてこの本を読み直すのでしょうか。

それは、この本の中に、現代のボイストレーニングにおいて決定的に欠けている視点、あるいは長い年月の中で誤解されてきた重要な問題提起が含まれているからです。
フースラーが繰り返し指摘したのは、「歌えない」という現象の背後にある声の抑圧や過度な緊張の本当の原因、そして感情と声の分断という問題でした。

驚くべきことに、これらは約60年前に書かれた内容であるにもかかわらず、現代の私たちの状況にもそのまま当てはまります。
むしろ、感情を抑え、周囲に配慮し、静かに整って振る舞うことが求められる現代社会においては、声の問題は当時以上に深刻になっている可能性すら感じられます。

だからこそ、この本を今読み直す意味があります。

これは単なる過去の理論の紹介ではありません。
古い思想を振り返りながら、その中にある本質を掘り起こし、現代の声の問題に照らし合わせて新たな理解を得ようとする試みです。

まさに「温故知新」。
古きを温め、そこから新しきを知る。
過去の洞察を土台にしながら、今の私たちの声の在り方を見つめ直すこと。

本記事の内容が、いま声に悩みを抱えている方にとって、自分の状態を理解し、回復の方向を見つけるための一助となれば幸いです。

 

フースラーメソードの本質はこの章にある

フースラーメソードの核心は、実はこの「基礎原理」の章に最も濃く集約されています。
ここには、フースラーが何を問題にし、どうすれば声の問題が改善するのか──つまり、フースラーメソードの前提となる思想と出発点が明確に書かれています。

逆にいえば、この章を読み飛ばしたり、表面的に理解したまま先へ進んでしまうと、その後の章の内容を正しく理解できません。
用語や言い回しだけを追って「テクニック論」や「発声のコツ集」のように読んでしまうと、フースラーの意図とは逆に、声を作為的に操作しようとする“悪解”につながりやすくなります。

フースラーが語っているのは、単なる発声手順ではありません。
「歌とは何か」「声はどのようにして生まれるのか」「なぜ人は歌えなくなるのか」──発声を扱う前提そのものがテーマです。
この土台を外したまま読めば、その後の章の内容の意味が本来フースラーが伝えたかった内容とは、まったく別物に見えてしまいます。
だからこそ本記事では、まずこの基礎原理の章を丁寧に扱います。

 

フースラーメソッドの基本思想

人は誰もが歌える

フースラーの考えでは、歌うことは特別な才能ではなく、だれもが本来持っている自然な能力です。
ここでいう「歌う」とは、楽譜どおりに正しく音楽的に歌うことではありません。

たとえば人は、うれしいときに無意識に鼻歌が出ることがあります。それは「うれしい」という感情を歌で表現したいという欲求が自然に声に出るからです。

また、まだ言葉をうまく話せない赤ん坊や幼い子ども逹も何か感情を表現したい時、その声には自然な抑揚や高低があり、まるでメロディーのような事に気づきます。

その声は感情と強く結びついており、無理のなく、よく通り解放された響きとして感じられることがあります。
このように、感情 → 歌いたい欲求 → 声 という流れが自然につながると、声は自然に開放され、豊かで生き生きとした響きになります。

フースラーはこの内側から湧き上がる力を「歌いたい衝動(欲求)」と呼びました。
そして、この「歌いたい衝動(欲求)」がある限り、人は誰もが歌えるのである――それがフースラーの考えです。

歌えないのは才能や筋肉不足ではない

フースラーのいう「歌えない人」とは、才能がない人や喉の筋肉が弱い人のことではありません。
歌えないのは、歌う時に本来動かないといけない筋肉が抑圧によって動かなくなっている事が原因です。
フースラーはこの状態を「声に鍵をかけられた状態」と表現しています。

フースラーのいう「自然歌手」の存在が示すもの

フースラーはこの章で「自然歌手」と言われる人達を解説しています。
フースラーのいう「自然歌手」とは、特別な訓練を受けなくても最初から「声に鍵がかからず」、自然に開放された声で歌える人のことです。

しかしフースラーはこの自然歌手は「天才」ではなく、
たまたま「声に鍵がかからず」に歌えている人達と考えています。

自然歌手は例外ではなく、人間の本来の声を示す“お手本”であり、
また条件が整えば人は誰でも(自然歌手のように)開放された声で歌える証拠だとフースラーは考えています。

 

フースラーが考える声の問題の本当の原因

声に「鍵がかかる」原因

フースラーのいう「声に鍵をかけられた状態」とは、感情が声に繋がらず、声が抑圧されている状態のことです。
そしてフースラーは、声がこのようになる原因として、単なる身体の問題だけでなく、生活習慣のあり方が深く関わっていると見ています。

第1 声を抑圧する生活習慣

現代社会では、他者からの評価をや周囲への配慮を強く意識されています。
その影響で大声で話したり笑ったり泣き叫んだりすると、強く注意されます。
その結果、私たちは感情をそのまま声に出さない習慣が身につきます。

さらに、他者からの評価を意識しすぎて「どのように伝えようか」「自分の声は相手にどう聞こえるか」と過度に考えながら声を出そうとすると、声は感情から切り離されます。
このように、感情を声に出さなかったり、感情と声が切り離された状態が続くと発声器官の一部しか使わなくなり、声は次第に抑圧されていきます。

第2 発声に関わる筋肉の運動不足

発声に関わる筋肉や器官は、使わなければ動かなくなります。
日常生活の中で声を十分に出す機会が減ると、声を出す筋肉や器官の反応が鈍くなり、次第に動かなくなります。
結果として、声を出そうとしても出しにくくなるのです。

第3 耳で聴き分ける能力の弱体化

フースラーは「耳で聴き分ける力が弱っていること」も大きな原因として挙げます。
現代人は視覚に頼りすぎていて、声や呼吸、響きの微妙な変化を耳で聴き分ける力が落ちています。
その結果、声に異変が起きていても気づかず放置され、状態はさらに悪化していきます。

フースラーはこのように、「鍵がかかる」原因を、身体そのものだけの問題としてではなく、現代人の声を出す事を控える生活習慣の中で徐々に常態化していった結果と考えています。

 

フースラーが考える真の改善法

改善は回復プロセス

フースラーは、訓練で大切なのは、「鍵のかかった声」を訓練によって解放し回復させる事と考えています。
なのでフースラーの考える発声訓練とは、筋力強化や新しい技術習得ではありません。

それは、動かなくなってしまった声を出す事に関わる筋肉や器官を訓練で再び動けるようにして「鍵がかかった声」を解放していく回復プロセスだとフースラーは考えています。
その意味でフースラーは、発声訓練を単なる技術習得ではなく、「治療に近いもの」とも考えているのです。

 

フースラーが否定する「力を抜けばよい」という誤解

「解放」と「力を抜く」は違う

上手く歌えないとき、人はつい喉に余計な力を入れたり、腹筋をガチガチに固めてしまったりと過緊張状態になってしまいがちです。
フースラーはこの様な過緊張状態になった時、指導者が「力を抜いて」と指導しても意味がないと言っています。

なぜならこの過緊張の原因は、声を出すときに働いてくれるはずの筋肉が動かないので、声を出す事に関係のない筋肉まで使って無理に声を出そうとしてしまっているからとフースラーは説いています。
フースラーは、このような現象を「代償行為」と呼んでいます。

前腕麻痺の例が示す「代償行為」が起こる仕組み

フースラーは、「代償行為」を説明するために、前腕の筋肉が麻痺した人の例を挙げています。
本来、物を握るために働く筋肉が使えない状態でも、人は「握ろう」とします。
すると前腕の別の筋肉が代わりに動き、さらに強い意志が加わると、噛みしめや息止めなど、関係のない筋肉まで動いてしまいます。

歌うときも同じ事が起きます。
歌うために必要な筋肉が十分に動かない状態で声を出そうとすると、関係のない筋肉がまで動いてしまい、結果として歌えなくなってしまうのです。

フースラーが考える本当の解決とは

代償行為が起こるのは本来、声を出す時に動くはずの筋肉が動かなくなっていることが原因です。
そのため、ただ「力を抜く」だけでは根本的な解決にはなりません。

フースラーが目指しているのは、単なる脱力法ではなく、動かなくなった筋肉を訓練によって再び動くようにしていくことです。
訓練によって、動かなくなっていた声を出すための筋肉が再び動くようになれば、声は目覚め、自然に解放されていきます。
すると、代償行為も、自然になくなっていくのです。

 

しかしフースラーは声が解放されれば誰でもプロになれるわけではない

フースラーは、歌う能力そのものは本来だれにでも備わっていると考えています。
多くの人は生まれつき歌えないのではなく、社会的・習慣的な影響によって声に「鍵」がかかっているだけだ、と主張しています。
しかし彼は、声が解放され、本来の発声機能が回復すれば、そのまま「プロになれる」といは言っていません。

プロとして舞台に立つためには、音程・リズム・様式の理解、楽譜を再現する能力、音楽的判断力などの専門性が求められます。
さらに、健康や性格、知的能力といった条件も関わります。
また、たとえ素質があっても、発声の崩れを自ら回復し管理できるだけの訓練と理解がなければ、厳しい要求の中で声を壊す危険があります。

つまりこの章のフースラーの主張は、「声が解放されれば誰でもプロになれる」という楽観的な話ではなく、「歌える素養は本来だれにでもある」という点にあります。
発声訓練とは、その素養を妨げている「鍵」を外し、本来の声を取り戻すためのプロセスだとフースラーは言っているのです。

 

基礎原理のまとめ

フースラーは、歌うことは特別な才能ではなく、本来だれもが備えている自然な能力だと考えます。
歌えないのは才能や筋力の不足ではなく、生活習慣や抑圧によって発声に必要な筋肉や器官が十分に働かず、声に「鍵がかかった状態」になっているためだと説明します。

したがって発声訓練とは、筋力強化や新しい技術を身につけることではなく、動かなくなった発声機能を再び働くようにし、「鍵のかかった声」を解放して本来の声を取り戻す回復のプロセスです。
ただし、声が解放されたからといってだれもがプロになれるわけではありません。
本章の核心は、「歌える素養は本来だれにでもある」という点にあります。

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